日本の秋色
きのう、用事があって出かけ、バスの停留場(chǎng)に立っていたら、向う側(cè)の酒屋の橫の「英語、タイプライチング教授」とペンキ塗の看板のわきに、もう一つ今まで見當(dāng)らなかった広告が出ているのに心付いた。とりいそいでこしらえたらしい紙の広告で「オリンピックにそなえよ!」と上の方に橫書きされ、下に「速成ガイド資格準(zhǔn)備、速成オリンピック用會(huì)話教授」と大書されたわきに、それぞれ赤インクで線がひいてある。二三日前の雨のせいで、赤インクは侘しく流れ滲んでいるのであるが、この自宅英語塾主は、それ程の積極性をこの広告の効果に認(rèn)めていないと見え、よごれた特別広告はそのまま、錆のふいた門の鉄扉の外ではためいている。
四年後のオリンピック東京招致に亢奮した感情や、今回のベルリン?オリンピックに出場(chǎng)した日本選手に対する感情、又一般にひきくるめて日本の役人たちがオリンピックに対して一般民衆(zhòng)の感情を向けようとして煽り立てたその方向や現(xiàn)実の結(jié)果について、今日、民衆(zhòng)の常識(shí)は、どのような判斷を加えているであろうか。苦々しいものが、めいめいの胸にのこされた。スポーツをスポーツとして朗らかに若者らしく愛すものの心に、或る憤りが生れた。四年後のオリンピックに、この民衆(zhòng)の真の感情がどのように反映し、生かされるであろうか。
私は一人の市民として、オリンピック準(zhǔn)備の成りゆきを、ごく皮相的にではあるが注目している。そして、既に少なからぬ無理が生じていること、或る特定の思想で、現(xiàn)実がきりこまざかれはじめていることを感じる。例えば、オリンピック村の敷地が成城學(xué)園の附近に選定されるらしいが、その敷地は寄附という形で、無代でとりあげられるらしい。オリンピック村の建物は競(jìng)技がすんだ後も殘るから、それを下附すればアパートメントとして収入を得られる。だから、それで償いは十分につく、という説の上に立てられた計(jì)畫であるらしい。話したひとは、眉のところに獨(dú)特の表情を泛べて口元を曲げながら、でもねえ、そんなに何年ももつような建物が果して建てられるだけたっぷりした予算がとれるんでしょうか。よしんば、書類の上ではそれだけの予算があったって、ねえ、と更に意味ふかく笑った。出來上るのはどうせバラックでしょう? と極めて現(xiàn)実にふれた洞察で云うのであった。
一九四〇年のオリンピックが東京へ來るときまった時(shí)、新聞で首都の美醜を?qū)懻妞摔筏茖澅趣筏郡长趣ⅳ盲?。醜と目された部分を四年の間に何とかせよという意味がふくまれていた。ところが、醜として撮影された部分が人生の情景として、感情をもって見れば常に必しも醜ではなく、首都の美観の標(biāo)本として示されたものの中には、卻って東洋における後進(jìn)資本主義の凡庸なオフィスビルディングの羅列のみしかないのもあった。都市の美醜、人生の美醜をどう眺めるかということについて、一つの永い論議がなり立つ問題であるが、ここでは、その方向へは赴かず、私は、一つの熱い心をもって、なぜさように、一部の人たちは日本の民衆(zhòng)の生活をあるがままに示すことを恐れるのか、という質(zhì)問を提出したいのである。私たちは、窮屈な、窮乏化す日本の民衆(zhòng)として、日々それぞれの形で実に営々として生きている。この姿を外にして私達(dá)一般人の人生はないのであるのに、それが抹殺されて、何のためにマダム?バタアフライのサクラ?バナやゲイシャや、フジサンのみを卑屈に修飾して提供しなければならないのであろうか。人民戦線が勝利して以來、フランス出版物の輸入をきびしく制限しつつ、何のために志賀高原のてっぺんに國(guó)際観光ホテルを建てて、外務(wù)省がそのために盡力しなければならないのであろうか。
國(guó)威ということが、昨今新しい內(nèi)容でとりあげられている。それを発揚(yáng)した時(shí)代への思慕は、女の服飾の流行に桃山時(shí)代好みとして再現(xiàn)されている。國(guó)威というものの普通解釈されている內(nèi)容によって、それを或る尊厳、確信ある出処進(jìn)退という風(fēng)に理解すると、今回のオリンピックに関しては勿論、四年後のためにされている準(zhǔn)備そのものの中に、主としてそういう抽象名詞を愛好する人の立場(chǎng)から見ても何か本質(zhì)的にそれと撞著する観念が潛入しつつあることが感じられるのである。
大體、外國(guó)人を案內(nèi)して、外見的には、生活系統(tǒng)が全然ちがう日本を、現(xiàn)実的に、私共があそこをこそ観て欲しかったと思うように、観察させることは、日本の事情に於て難事中の難事である。又一方からいうと、そういう目をもった外國(guó)人が果して何人來るであろうか、とも考えられる。このことはジャン?コクトオが日本へ來て、詩人堀口大學(xué)氏にあちこち案內(nèi)せられ、後のちかえって発表した日本印象記をよんで痛感した。コクトオがたった一人で足にまかせて東京を歩いたとしたら、或はもう少し彼の生きた目が生きた日常の現(xiàn)実にぶつかり、日本の民衆(zhòng)の姿が映ったかもしれない。コクトオは或る意味で才能をもった詩人と云われているのであるが、彼の日本印象記は、おさだまりの日本印象記であった。彼は、自身のカリケチュアを私共に示した。私共は私共の現(xiàn)実の中に生き、その悲喜を生きている。コクトオやスタンバアグが大川端の待合で、或る気分を日本的と陶酔する姿を、苦しい笑いでこちらから見物せざるを得ないではないか。